練習帳@blog

これからは写真中心で行きたい

さらに追記。

興味深い議論が注目エントリにあがっていた。

俺も一連の騒動、特にマスコミの報道に対して「ココヴォコ図書館」の人のような印象をもち、同じようなことを書きたくなる衝動をもった*1

言いたいことは概ね同意なんだけど、「猫を殺すような人は、(全部)酷い人だ」という思考パターンを批判している(んだと思うけど、違ったらすいません)人が「「猫を殺すような人は、(全部)酷い人だ」と考えるような人は、(全部)ナチだ」(とは言っていないのは重々承知ですが、パターンの例として)というような論理展開をしてしまうのはやっぱりまずいと思う。

一連の坂東氏に対する批判や、ロリコンファルさんのエントリを読んで俺がなんだか怖いなと思ったのは、その意見が「衆愚」とか「大衆的意見」だからではなく、「かわいい猫を自ら殺すような奴は、どんな事情があろうともとにかく酷い人間である。そこに理屈はない」という思考停止的な部分が感じられたから。
その思考停止っぷりが、相互作用で増幅しているような気がしたから(ここは、「ココヴォコ図書館」のBさんと同じかも)。

ロリコンファルさんの文章で言うと、例えばこの部分。

しかし、坂東氏に対し、「猫を殺すのはひどい」と一行コメントを
つけているような、きっちり文章を書く力はないけれど、でも、感じる心
を持っている大勢の人を虐殺者扱いすることには怒りを覚える。人々の感じる心
こそが、世に倫理を生み出す。


「感じる心」を持っていることが怖いのではない。
「感じる心」の感じるままにしか行動しているように見えることが怖いのだ。
「猫を殺す奴は悪い奴」という短いフレーズのみで攻撃行動していることが怖いのだ。
「人々の感じる心」という一見美しい言葉に酔い、「もしかしたら暴走しているかも」という疑問を一切持っていないように見えることが怖いのだ。


腐海の蟲を殺されたことへの怒りで我を忘れ、目を真っ赤にして突進してくる王蟲の群れのように見えてしまう。


「そんなもん、悪い奴に決まっているじゃないか」という人は、わかりにくいかもしれないが俺の「練習帳」の文章をよく読んで欲しい。

そしてさらに自分の頭で考えて欲しい「では坂東氏に子猫殺しをやめさせるにはどうすればいいのか*2」「不幸にも死んでいく猫をなくすにはどうすればいいのか」、「ペットの意味」「無残に死んでいく人間の子供のこと」

俺は坂東氏の行動を手放しに批判できない。もちろん賛同もできない。卑怯かもしれないが、今の時点ではこれが精一杯。

*1:ちょっと書いちゃってるけど

*2:坂東氏を殺しても、第二第三の坂東氏が現れるだけだぜ