のらねこ〜まじどうにかならんか
- http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/770743.html
- http://d.hatena.ne.jp/orochon56/20060821#p1
- 作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る - Something Orange
さらに参考
について、いろいろ書こうと思ったけど、個人的な恨みつらみと業とか原罪とかカルマみたいな話がごちゃ混ぜになっていやになったのでやめる。
でも一言だけ。野良猫に餌だけやって「いいことをした」と思っている人について。
野良猫に餌だけやってる人たちの多くが、お腹を空かせたかわいそうな猫に餌をあげて、ちょっと遊んであげて、喜んでいる風な機嫌のいい猫の姿を見たあとで、猫を外に置いたまま玄関のドアを閉めて「ああ今日も良いことをした」なんて満たされた気分で心安らかに眠っているんだろうけど、それって「ヤリたい時だけ現れて、やることをやったらさっさと帰って後は音信不通」な鬼畜人間とおなじだぜ。
猫は毎日お腹が空きます。きれいな水も必要です。
猫に必要な栄養は晩御飯のあまりものだけでは十分に摂れません。また人間には無毒でも猫には有毒なものがたくさんあります。
猫だけがかかる致死性の伝染病があります。
猫はうんこもおしっこもします。誰かの家の庭やどこかの公園の砂場、近所の駐車場の中で
猫は暑いときは涼しい場所に、寒いときは暖かい場所で寝ます。たとえそれがどっかの誰かの車の上でも
「それでも猫も一時的にせよお腹がいっぱいになったんだからいいじゃん」という言葉は「相手も気持ちよかったんだからいいじゃん」と同じ言い方だ。
「餌をあげること」そのものについては、いいのか悪いのか俺には良くわからん。が、「餌をあげたんだから私は良い人、猫に優しい人。」なんて思っているとしたら思い上がりも甚だしい。間違いなく近所の人たちに迷惑をかけているし、餌をあげた猫がその餌のせいで死んでいるかもしれないんだから。
猫はかわいそうだけど猫を飼うことはできないという人は、せめて最初にあげた参考リンクをよく読んで、自らの餌のやり方を反省して欲しい。
追記
件の坂東真砂子氏の記事がマスコミに大々的に取り上げられ始めている。
この記事の江川紹子氏のコメントがなかなか味わい深い。
子猫が生まれないように避妊手術をすることと子猫の命を奪うことを同列に論じている板東さんの論理はおかしい。
俺にはおかしいかどうかを判断することはできない。坂東氏は避妊手術が猫にとって死に等しいと考えているから、ああいう行動となったかも知れないから。
何が猫にとっての幸せかは猫でなければ分からない。突然殺されることに子猫は悲しんでいるはずだ。
この部分が特に味わい深い。「猫でなければ分からない」と言いながら、勝手に「悲しんでいるはず」と決め付けている。
猫は野生動物とは違う。人間とのかかわりの中で生きてきた猫と、どう幸せに寄り添っていくかをもっと考えるべきだ
坂東氏の行為を否定しているようで否定できていない。そもそも「猫の幸せ」を定義できないといっているので、「幸せに寄り添う」という結果が不確定になる。
霊となって寄り添ってるかもしれないじゃないか*1。
「がけ下に投げる」のは悪いことだろう。だが、
外飼いしていて車に轢かれる」のはいいのか?
予防接種をせずに伝染病で死なせるのはいいのか?
公的機関による殺処分に持ち込むのは問題ないのか?
野良猫の苦情を市役所にねじ込んで、いつの間にか野良猫が居なくなっている(=殺処分される)のは問題ないのか?
「避妊手術はペットを人間の都合の言いように改造する行為だ」という考え方を論理的に否定できるだろうか。
俺には゛自分の手を汚しているかどうか」という点以上の違いが判らない。坂東氏が快楽殺猫者(とは言わないわな普通)でないのであれば、あらゆるリスクを背負って自ら手を下している分まだましなような気もする*2。
「避妊手術はペットを人間の都合の言いように改造する行為だ」という考え方を認めた時、そうやって繁殖せず生き続ける猫というのは・・・っと危ない。これ以上はカルマ系の話になっちゃうのでもうやめる。
ペットであり人間が意思を確認できない猫に対して、「死なせてしまった」と「殺してしまった」の境界は本当にあるのか?
坂東氏を批判している記事からは、「かわいい猫を殺すな」以上の批判を読み取ることはできなかった。