練習帳@blog

これからは写真中心で行きたい

役に立つ・立たない以前に科学的な正しさのことも時々でいいので思い出してください。

また「因縁付け」みたいな感じなんだけども。

一連の「信夫と浩生*1」の議論を見ていて、俺がずっと気にしていたのは「役に立つかどうか」じゃなくて「科学的に正しいかどうか」という点だ。

だから上記のエントリのように「役に立たないかもしれないけど、面白ければいいじゃない」とか「科学的じゃないけどないと困る」というのは、個人的にはあまり受け入れられない。

「誰がやっても誰が考えてもそうなるんだから仕方がない」ということなら、多少の苦難を乗り越えても勉強しようかとも思えるが、「面白い」とか「困る」というのはあくまでも個人的な感覚なので、なんか「学問としてどうよ」という感じがする。


たとえば「役に立たないかもしれないけど、面白ければいいじゃない」というなら別に学問でやる必要はないと思う。小説でも漫画でももっと面白いものはたくさんある。↓のページのようにそもそも役に立つかどうかという評価基準に意味がないという話もある。


「科学的じゃないけどないと困る」というのは、嫌いじゃないし否定しないけど、なんとなく落ち着かない。ちょっと違うかもしれないけど、この感じは確かに経験的には有効なんだけど、いわゆる西洋科学的にはあまりちゃんと説明できていないという点で鍼灸に似ている。ニセ科学ぎりぎりだ。


最低限「誰が考えても同じ、誰がやっても同じ」レベルの話を期待したかったのだが、結果的に本人自ら「疑似科学」と言い出して台無しになっちゃったわけで。


思えば、山形氏が「循環論法だ」と指摘した点を池田氏が華麗にスルーしてしまった時点で、この結末は予想すべきだったのかもね。


「科学的に正しい」とはどういうことかというのは「科学哲学」とかそういう分野になるんだけど、なかなかにおくが深そうだ。とりあえず「勉強したい箱」に入れとこ。

*1:ハテブのタグからのパクリ。