誰のために闘うか、何のために管理するか。
屁理屈をこねます。
http://blog.livedoor.jp/antichristdreamer/archives/50352815.html
もし戦争が起こっても国のために戦うつもりは皆無です、田中大介です。
俺も大体同じ考え方。俺も「国のために戦う」なんてことを言えるほどおめでたくは無い。
だいたい「国のために戦う」というときの、「国」ってなんなんだろう。 「国土」のこと?「領土」のこと?「日本政府」というシステムのこと? 「国会」? 「天皇陛下」? 「日本国民=日本国の国籍を有する人=あなたとわたし、私たちの子孫」・・・それはないな。
前の戦争のとき、「大日本帝国の国民」は「国のため」に戦ったり戦わされたりした。
「靖国の英霊のおかげで、今の日本の繁栄がある」とか「あの戦争は自衛のための戦争だった」とか言う人がいるが、あのとき「大日本帝国の国民」は、決して自分たちを守るために戦ったわけではない。
「一億総玉砕」といわれていたのだ。「お国のため」といって本来であれば自分の命に代えても守るべき最愛の人々を戦地に、特攻隊に、送り出したのだ。
「一億総玉砕」では守るべき「国民」がいなくなっちゃうじゃないか。
その後60年ほどたったが、状況はさほど変わってはいないと思う。「美しい国へ」とか言っちゃうような人が総理大臣になろうとしている以上、軽々しく「国のために戦う」という言質/魂は売り渡すべきではないだろう。
誰が総理大臣になろうとも、「国のために戦う」ことで、自分自身、自分の嫁さん、子供、両親、そしてあらゆる知り合いに危害が及ぶのであれば、俺は躊躇なく「国のための戦う」ことと戦う。
そしてそれは、「誰かが攻めてきたときに戦わないこと」を意味しない。自分自身、自分の嫁さん、子供、両親、そしてあらゆる知り合いに危害が及ぶのであれば。
だから、田中氏のエントリが俺と同じような考えであれば、以下のエントリとは全く矛盾しない。
仮に自衛隊が存在しないとしても、日本ではあなたのために戦っている人たちがすでにいることはご存じだろうか?
誰かのために戦うことを否定しているのではなく、わけのわからない「国」とか言うもののために戦うことを拒否しているのだから。
だからあなたがもし、暴力が嫌いだとしたら、やることは二つある。
「暴力の管理者の吟味」と、「暴力の管理者への尊敬」、である。
日本の「平和主義」が空しく聞こえるのも、この二つが大きく欠如しているからだ。
俺は、「日本の「平和主義」が空しく聞こえる」のは「暴力の目的、暴力の管理の目標」が全く見えないからだと思う。
暴力を使う/使わない目的が「国体の維持」とか「国家の安定」とか「国益の確保」では、俺は吟味も尊敬もできない。もっと言えばその暴力は容易にこっちへ向かってくるに違いないとさえ考える。向かってきたときに「目的の範囲内です」といわれてしまえばそれまでではないか。良くて刑務所、最悪殺されてしまう。
「暴力の目的、暴力の管理の目標」がはっきりしていないので、暴力管理の責任もはっきりしない。だから、おかしな方向に進んでいてもわからないし、修正する人もいないのではないか。
「国」「国民」「国体」「国益」、誰が戦い、何を守るのか。武器は何でどう使うのか。
西部劇のような、戦隊物のような無邪気な戦術論は嫌いじゃないけど、政治家も、役人も、軍人も、国民全部、もうちょっと言葉をはっきりさせて話をする必要があるように思う。
と、ここまで書いて、「国」という概念に一片の疑念もさしはさまず、「国」を「一億総玉砕」してでも守るべきものと考えている人々にとって、上記エントリは意味を成さないことに気がついた。
けど、まぁいいや。